雨つぶが、ひとつ、僕の頬を打った。
自宅から駅までは、わずか10分の距離。 今日は、折り畳み傘を使わなくて済むと思ったのに。
満員の通勤電車の中で、濡れた折り畳み傘を持てあましている自分を想像して、僕は、思わずため息をついて、軽く唇を噛んだ。 こんな、── こんな朝なのに。
実家に里帰りしていた彼女が、ある日、戻ってこなくなってから、もう2か月になる。
身にまったく覚えのなかった僕は、あまりの突然のことに、驚き、うろたえ、混乱した。 心は、事実を受け入れることができないまま、ただ、体だけが動いて、事態に対応していた。
いっさいの話し合いを受けようとしない彼女に、知り合いから司法書士を紹介してもらい、全くの第三者を経由して、間接的なやり取りが始まったのだ。
昨夜は、その司法書士から、初めてメールが届いた。 メールには、文書ファイルが添付されていた。 それは、── 彼女からの、離婚事由説明の文書だった。 僕は、ほんの一瞬、ためらったあと、意を決して、ファイルを開いた。
・ 夫は、穏やかな性格で、相性が合うと考え、結婚した
・ 新居は2DKのアパートだったが、そのアパートの居住者は男性 ばかりだったのに気づき、すぐに転居をしたいと話したが、夫は 応じなかった
・ 夫は、あぐらをかきながら、子供にミルクを飲ませるなど、父親としての 自覚がない。 私が、子供にミルクを飲ませるときは、きちんと正座して 欲しいと強く注意すると、背を向ける
・ 夫は、暴力や大声を出すことはないが、意見が押し付けがましいときがある
・ 会社からの帰りが遅く、心身疲れ切っている様子で、休日も少し目を 離すと、居眠りをしている。 覇気がなく、魅力が感じられなくなった
── こんな内容が、延々、100近い項目にわたって、列挙されていた。
この文書を眺めながら、僕は、その向こう側に見える、あることを感じていた。
それは、とても簡単なこと。
『── 彼女は、ただ、僕を嫌いになった。』
それだけのことだった。
そして、僕は、彼女の性格を良く知っている。 彼女は、一度言い出したことは、── 絶対に引かない。
文書の中の項目は、明らかに事実と違うものも多く、ひとつひとつ、論破していくのは、それほど難しくなかった。
ただ、それを始めてしまうと、本当の戦いになってしまう。 僕と彼女は良くても、子供たちは、子供たちの未来は、どうなるのか。
僕は、ディスプレイを前にして、朝が近づくまで、ぼんやりと考えていた。
雨粒が、僕の背広の、ところどころに、小さな跡をつけはじめた。 いよいよ、本降りだ。
僕は、鞄の中をまさぐって、折り畳み傘を取り出すと、振り払うようにして開く。
その傘の先を見たとき、── 道端の小さな公園の植込みに、青い紫陽花がひっそりと咲いているのに、初めて気がついた。
心が、彼女と子供たちのことで一杯で、いままで、気がつく余裕も、なかったのか。
以前、彼女が言っていた言葉が、ふと、頭をかすめた。
” 紫陽花の花はね、植わってる土で、色が変わるの。 だから、花言葉はね── 『移り気』。 私が、幸せになれるかどうかは、ぜんぶ、あなた次第、なのよ。”
降り出した雨が、すぐに、僕を現実に引きもどす。 僕は、傘を上に掲げると、駅への道を、急ぎ足で歩き出した。
きっと、この紫陽花を見るのは、この季節が最後になる。 そんな予感を、心の隅に押し込めながら。
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